友人に手紙を書こうと思い立ったのが夜の9時。インクを選び終わったのが夜の10時半。手紙の内容は一文字も決まっていませんでした。

これ、笑い話じゃなくて本当にあった話です。「あの子に手紙を書こう」と思って、まず万年筆を出して、次にインクの瓶を並べ始めて、そこで思考が止まりました。何色で書くか、という問いが脳内の最優先タスクになった瞬間、書く内容のことはどこかへ消えていきます。

インク選びというのは、始めると止まらないんです。「この濃紺にしようかな」と思って瓶を手に取るんですが、「でもこの手紙の雰囲気には少し重いかもしれない」という疑問が浮かぶ。じゃあもう少し明るい青にするかと思ったら、「この季節なら緑系もいいな」となる。緑を見ていたら「深みのあるボルドーも捨てがたい」という気持ちが出てくる。こうして全部の瓶をテーブルに並べ終わった頃には、40分が経っています。

🕰 インク選びの40分、実録
0分「手紙を書こう」と思い立つ。万年筆を出す。
3分インクの棚を開ける。「どれにしようかな」と思う。
8分候補を5本に絞り、テーブルに並べる。
15分「やっぱり別の色も見たい」と棚に戻り、さらに3本追加する。
25分試し書きをしはじめる。紙がインクだらけになる。
35分試し書きの紙を眺めながら「これはこれで好き」と思う。
40分ようやく1本に決める。手紙の内容はまだ白紙。

インクを選ぶ基準が、また難しいんですよ。「誰に書くか」「どんな内容か」「どんな紙に書くか」「今の気分」「季節感」、これが全部絡み合います。友人への明るい近況報告なら、少し遊びのある色がいい。でも久しぶりに連絡する相手なら、落ち着いた色の方がいいかもしれない。お礼状ならフォーマルに黒か濃紺だけど、でも手書きなんだからちょっと個性があってもいいんじゃないか──この思考ループ、一度入るとなかなか抜けられません。

そして「インク沼」と呼ばれる現象があります。色が気になって1本買ったら、「もう少し青みの強いのも欲しい」「同じシリーズの別の色も試してみたい」となって、気づいたら棚にインクの瓶が増えている状態です。しかもインクって、瓶のデザインがまた良いんですよ。パイロットの色彩雫(いろしずく)シリーズなんて、瓶を眺めているだけで時間が溶けます。「山栗」「土筆」「紺碧」──名前からして既に好きになってしまいます。

🖋 沼に引き込まれやすいインクたち
 
紺碧(こんぺき)/パイロット 色彩雫
深みのある青。「これ一本あれば何でも書ける」と思わせてくれる万能色。でも他の色も欲しくなる。
 
アメジスト系パープル
「普段使いには浮くかな」と思いながら買う。でも手紙に使うと喜ばれる。出番を待ち続けている。
 
深緑系
秋冬に使いたくて買った。気づいたら一年中眺めている。
 
ボルドー・深紅系
「大人っぽい手紙を書くときに」と思って買った。大人っぽい手紙を書く機会が来るのを待っている。

インクを持っている人あるあるとして、「試し書きした紙がどんどん増える」というのがあります。どのインクをどの紙に試したか記録しておくために書いたものが、いつの間にか大量になって、それを管理するためのノートが必要になる。インクのために文具が増えるという、完全な連鎖です。まずい。

インクを選ぶ時間は、無駄じゃない。
あれは「書く前の儀式」なのだ、たぶん。

と、自分に言い聞かせています。でも実際、インクを選ぶ時間って嫌いじゃないんです。どんな色で書こうか考えながら、受け取る相手のことを想像したり、渡したときの顔を思い浮かべたりする。その時間も含めて、手紙を書くということなのかもしれない。手紙を書く前の1時間が、じつはいちばん手紙のことを考えている時間だったりします。

……というきれいな話で終わろうとしましたが、正直に言うと、インクを選ぶのが楽しすぎて手紙を書く気力が消えてしまうことも、あります。今日もインクを選んで満足して、手紙はまた今度になりました。友人よ、すまない。インクは決まっています。

📌 インク沼の入口に立っているあなたへ

万年筆インクの世界は深いです。色の名前だけで30分溶けます。瓶のデザインだけで買ってしまいます。試し書きした紙がたまります。管理用ノートが必要になります。

でも、後悔したことは一度もありません。インクを選ぶ時間は、豊かな時間です。たぶん。