貸した瞬間、そのペンは他人になる
不思議なもので、ペンというのは相手の手に渡った瞬間、所有権がふわっと曖昧になります。
渡された人は書きます。書き終わります。そして——自分の筆箱に入れます。
悪気はありません。本当に一ミリもありません。手に持ったペンを筆箱にしまうのは、人類にとってあまりに自然な動作だからです。呼吸みたいなものです。
こうして、あなたのペンは新しい家に引っ越します。持ち主に見送られながら。
だから文具好きは「貸し出し用」を編成している
何度か同じ目に遭った文具好きは、やがて対策を覚えます。
筆箱の隅、あるいはカバンの外ポケットに、貸すためだけのペンを配備するのです。
- どこかのイベントでもらった、社名入りの黒ボールペン
- ホテルの備え付けだったやつ
- 3本入りで買ったのに1本しか使わなかった残り
この部隊の任務はただひとつ、「戻ってこなくても平気であること」。使命感すらあります。
ちなみに、この貸し出し用ボールペンに限って、めちゃくちゃ書きやすかったりします。そして「それ、いいペンですね」と言われる。あなたが3千円出して選んだ本命は、隣の筆箱で静かに黙っています。
それでも、うっかり本命を渡す日が来る
問題は、急いでいるときです。
「ペン貸して」と言われて反射的に手を伸ばす。渡してから気づく。
——あ、それ、いま一番いいやつ。
ここからのあなたは、もう会話に集中できません。相手が何を書いているのかではなく、相手の手がペンをどう握っているかを見ています。ノックを無意味に連打していないか。キャップを噛んでいないか。ペン先を下にして机に置いてくれるか。
そして相手が書き終わってペンを置いた瞬間、不自然なほど自然に回収します。
「あ、はいはい、どうも」
この一連の動きだけは、驚くほどスムーズです。
まれに、返ってくることもある
もちろん、返ってくるケースもあります。ただし完全な状態とは限りません。
- キャップだけ行方不明になって帰還する
- ノックがなんかゆるくなっている
- なぜか自分のじゃない別のペンが返ってくる(謎の等価交換)
- 3ヶ月後、まったく関係ない場面で「これ、あなたのだっけ?」と出てくる
最後のパターンだけは、ちょっと嬉しい。ペンが自力で帰ってきたような気持ちになるからです。実際には机の奥に落ちていただけですが。
それでも、私たちは貸す
ここまで書いておいてなんですが、次に「ペン貸して」と言われたら、あなたはまた貸します。
断る理由がないからです。困っている人がいて、自分の筆箱にはペンが8本ある。どう考えても貸すべき状況です。8本ある方がおかしいという指摘は、いったん受け付けません。
ただ、ひとつだけ覚えておいてください。
貸すときは、心のどこかで一回お別れを済ませておく。
帰ってこなくても平気。帰ってきたら嬉しい。この心構えでいれば、文具好きの精神は守られます。
——なお、いま思い出しました。3年前に貸した青軸の1本、まだ帰ってきていません。
