みなさん、「有隣堂しか知らない世界」はもう観ていますか? 神奈川・横浜を中心に約40店舗を展開する老舗書店・有隣堂が運営するこのYouTubeチャンネル、文具好きのあいだでは今や知らない人のほうが少ないくらいの存在です。チャンネル登録者数は28万人超。「あの動画を観てから文具の沼にハマった」「岡﨑さんが紹介してたやつ、買いました」という声がSNSに溢れ、ひとつの動画がリアルの売場の在庫を動かしてしまうほどの影響力を持っています。いったいこのチャンネルの何がそんなに人を惹きつけるのか、改めて掘り下げてみたいと思います。
書店員がYouTubeで文具を語りはじめた日
チャンネルが始まったのは2020年のことです。記念すべき第1回のテーマが「キムワイプ」──実験室の必需品で、有隣堂の棚にはそもそも置いていない商品でした。「書店として売れるものをPRしよう」という発想を最初から捨てているこのスタートダッシュに、すでにこのチャンネルらしさが詰まっています。
番組の構成はシンプルで、それがまた良いんです。MCを務めるのは、ミミズクをモチーフにした毒舌キャラクター「R.B.ブッコロー」。そこに毎回ゲスト「案内人」が登場して、自分の得意分野や好きなものを語り倒す、というスタイルです。タイトルはすべて「○○の世界」。文具や書籍はもちろん、レクサス、ログハウス、果てはキムワイプまで、守備範囲の広さが潔くて気持ちいいです。
そのなかで圧倒的な存在感を放っているのが、有隣堂の文房具バイヤー・岡﨑弘子さんです。自称「文房具王になり損ねた女」。これ、冗談みたいな肩書きに見えますが、ちゃんと由来があります。TV番組「TVチャンピオン」の「文房具王選手権」に2度出場して、2度とも準優勝。優勝にはあと一歩届かなかった、という悔しい経歴がそのままキャッチコピーになっているんです。文具への愛を、おっとりしているようで実は芯の強い言葉で語る岡﨑さんと、歯に衣着せぬブッコローのツッコミのテンポ感が本当に絶妙で、気づけば30分近い動画をあっという間に観終わっている、なんてことがざらにあります。
岡﨑さんの影響力はチャンネルの外にも広がっています。「岡﨑さんに直接文具を選んでほしい」と売場を訪ねるお客さんが後を絶たず、2022年7月には横浜・コレットマーレ内のSTORY STORY YOKOHAMAに、岡﨑さんが選び抜いた文具だけを集めた常設売場「岡﨑百貨店」がオープンしました。バイヤー個人の名前が売場名になるというのは、本当に異例のことだと思います。それだけファンから信頼されているということの表れでしょう。
ブームの火付け役になったアイテムたち
「有隣堂しか知らない世界」で取り上げられてから、売れ方が変わった文具は数え切れません。なかでも特に印象的なアイテムをピックアップして振り返ってみます。
ガラスペン
筆記具今でこそすっかりおなじみになったガラスペンですが、現在のブームの火付け役として真っ先に名前が挙がるのがこのチャンネルです。チャンネル第2回目で取り上げられたとき、プロデューサーが「今まで見たことがなかった」と感じたほど、当時の一般的な認知度は低いものでした。インクに浸して書く独特の感触、螺旋状の溝が光を受けてきらめく美しさ、「大切な手紙にだけ使いたい」と思わせる非日常感──それらが動画を通じて一気に広まり、文具系SNSの定番アイテムへと駆け上がりました。あの動画がなければ今のガラスペン人気はなかったかもしれない、と思うと感慨深いものがあります。
蓄光文具
ユニーク文具暗闇でじんわり光る「蓄光」素材の文具も、岡﨑さんが何度も登場させる大のお気に入りアイテムです。正直、実用性だけで考えたら「なくても困らない」かもしれない。でも、それがいいんです。引き出しを開けるたびにちょっとテンションが上がる、そういう文具の使い方を教えてくれるのが岡﨑さんの真骨頂。「こんな文具があったのか!」という驚きをそのまま画面越しに届ける語り口は、何度観ても飽きません。チャンネルでの紹介後には有隣堂店頭への問い合わせが増えたというエピソードも残っており、岡﨑さんの紹介力の高さを証明しています。
シーリングスタンプ
レター文具封蝋(ふうろう)を熱で溶かして封筒に押す「シーリングスタンプ」も、チャンネルを通じて一気に身近になったアイテムのひとつです。もともとはヨーロッパの手紙文化に由来するもので、日本ではちょっとハードルが高いイメージがありました。でも有隣堂がオリジナルのスターターキットを展開したことで、「試してみたい!」という人が一気に増えました。LINEやDMでやりとりするのが当たり前の時代だからこそ、ろうそくを溶かして封をするというひと手間に、特別な気持ちが宿る気がします。「誰かに手紙を書きたくなる文具」、この一言に尽きます。
個性強すぎ文具
ユニーク文具「個性強すぎ文具の世界」シリーズも、ゆーりんちー(チャンネルファンの愛称です)に大人気のコンテンツ。足が生えたペンケース、冠(かんむり)の形をした極小クリップなど、「これ誰が考えたんだ」と笑いながらも気になって仕方ない商品がどんどん出てきます。サンスター文具をはじめ各メーカーの担当者が案内人として登場して自社商品への愛を語る構成もたまりません。観終わったあとに「要らないけど欲しい」という謎の感情が生まれるのが、このシリーズの醍醐味です。
なぜ「有隣堂しか知らない世界」はこんなに刺さるのか
正直に言うと、最初はなぜここまでハマるのか自分でもよくわかりませんでした。商品の機能説明が特別うまいわけでも、映像がとびきり凝っているわけでもない。でも観ていると、画面の向こうから「本当に好きなんだな」という熱が伝わってくるんです。岡﨑さんが紹介するアイテムに、広告臭や売り込み感がまったくない。まるで文具に詳しい友人が「これ最高だから聞いて!」と話しかけてくれているような感覚です。その感覚が、視聴者の信頼につながっているんだと思います。
チャンネルが掲げる目的は「有隣堂のファンを増やすこと」。商品を売ることではなく、有隣堂という書店を好きになってもらうことを第一に置いているんです。その優先順位が画面から滲み出ているから、視聴者も安心して「好き」になれる。「推しに課金してきた」という言い回しで有隣堂での買い物を報告するゆーりんちーが続出しているのも、この信頼関係があってこそだと思います。
毎週火曜日の定期更新という安心感も、習慣的に観てもらえる大きな理由でしょう。しかも文具だけでなく、レクサスやログハウスまで臆せず扱う懐の深さが、もともと文具に興味がなかった層の入口になっています。「別の回を観ていたら、いつの間にか文具回ばかりチェックするようになっていた」というのは、ゆーりんちーあるあるではないでしょうか。
さらに、岡﨑さんは2024年に書籍『有隣堂名物バイヤー岡﨑弘子の 愛すべき文房具の世界』(扶桑社)も出版しました。チャンネルでおなじみのアイテムから、まだ動画では紹介していない注目商品まで354点を収録。動画では伝えきれなかった岡﨑さんの偏愛の深さが存分に味わえる一冊で、こちらも発売後すぐに話題になりました。
YouTubeが変えた「文具の選ばれ方」
少し前まで、新しい文具と出会う方法といえば、専門誌の特集や文具店の店頭POP、文具好きな友人の口コミくらいでした。それが今では、夜中にスマホで流れてきた動画がきっかけで、翌日には注文している──なんてことが普通に起きています。
「有隣堂しか知らない世界」は、まさにその変化の象徴です。岡﨑さんが動画の中で語る一本のガラスペンへの愛が、横浜から遠く離れた視聴者の「欲しい」に直結する。文具自体の価値は変わっていないけれど、その価値が届く経路は確実に変わりました。
このチャンネルが教えてくれているのは、「好きな人が好きなものを本気で語る」という、実はいちばんシンプルで強い発信のかたちです。文具好きとしては、これからもこういう熱量のあるコンテンツがどんどん増えてほしいと、心から思います。
📌 まとめ
「有隣堂しか知らない世界」は、老舗書店のYouTubeという意外な場所から、ガラスペン・蓄光文具・シーリングスタンプなど、数々の文具ブームの火付け役となってきました。
その中心にいる文房具バイヤー・岡﨑弘子さんの「本気の偏愛」と、ブッコローとの絶妙な掛け合いが生む独特の空気感が、28万人超のゆーりんちーを育ててきました。まだ観たことがない方は、ぜひガラスペンの回から観てみてください。沼へようこそ。
文具の魅力は、語れる人がいれば必ず伝わります。このチャンネルが証明してくれているのは、そのシンプルな事実だと思います。
